自己表現が素直にできるワタシに。
こんにちは。
アートセラピストのみっちです。
毎月、アートワークの場を開かせていただいています。
「参加したいです」とご連絡いただくことも増えてきて、
興味を持ってくださる方が少しずつ、少しずつ、
顔を出してくださるようになってきて、嬉しい限りです。
ただ、毎回、残念に感じるのは、
オトナの皆さまの反応です。
とても興味を持ってくださり、
ワクワクもしているのに、
何か不安を感じるのか、怖いのか、
なかなかご参加いただけないことがあります。
これは、ファシリテーターの私の問題かもしれませんが、
もっと、根深いものを感じずにいられません。
参加したいけどできない、という行動の裏側に、
「ダメ出しされたらどうしよう」
という恐怖が潜んでいることがあります。
自分が良いと思って表現したことが、
否定されたら怖い。嫌だ。不安だ。
そんな不穏なエネルギーを感じることがあります。
それを感じる時、実母の体験や、自分自身の体験が重なります。
実母は、絵が得意という訳ではなかったけれど、
とても独創的な発想をする人で、興味深い表現をする人でした。
小学生の時、先生が読んだ物語を絵にする、という課題が出され、
母は、雨の場面と晴れの場面とを1枚の画用紙に描いたのだそうです。
絵巻物を想像していただけると、わかるかな?
会心の出来だ!と満足していたところ、先生から、
「どうして2つの場面を一緒に描くの?そんなのダメでしょ」
と言われ、物凄いショックを受けたそうです。
しかも、ダメな見本として、クラスメイトに提示されたのだとか。
母の氣持ちは、如何許りだったでしょう。
その後、絵を描くことも、美術の時間自体も敬遠するようになり、
誰かの作品を観ることだけを自分に許していました。
なので、美術展は大好きでしたが、
「到底、あんなものは描けない」
「美を理解できても表現できなければ無駄」
などと言っていました。
これは、母が自分に掛け続けた呪いの言葉だと、
今ならわかります。
その原因を作ったのが、小学校の時の先生である、とも。
本当に、残念なことです…。
(真摯に取り組んでくださる先生方もたくさんいらっしゃることを知っています。すべての先生に批判的な訳ではありません。そのようなこともある、ということです。しかし、たった一度の体験が、深く傷をつけることを私達は理解している必要があると思います)
幼い時に、自分の世界を自分より力のある存在(親とか先生とか、周囲のオトナ達)が、無残にも否定して、その上晒し者にするようなことをしたとしたら、あまりのショックに耐えられないと感じます。
そのショックから逃れるため、自分を守るために、
否定された対象(母の場合は絵を描くこと)を嫌いになったのだと理解することもできます。
そんな悲しい想いを体験した場合、
自己表現がとても難しくなります。
アート表現は自分を脅かす怖いもの、
と認識しているかもしれません。
それは、本当に残念なことです…。
幼い頃、ラクガキが大好きだったとか、
何かを組み立てるのに夢中になったとか、
分解するのが楽しかったとか、
いろいろあったのではないでしょうか。
または、それらを楽しんでいる友達をみていて楽しくなって、
一緒にやった経験が、何か1つ、あるのではないでしょうか。
アート表現は、楽しいものです。
自分の感覚を自由に表現するって、
とてもとても楽しい、嬉しいものです。
毎月のアートワークの場では、
上手ねって声掛けは、一切しません。
もうおしまいですよ、とも言いません。
参加してくれた誰もが、
自分の世界で存分に遊べるよう、
ただただ、見守っています。
もちろん、何かを提案することもありますが、
それを選択するかは、本人の自由。
何かを表現してもいいし、しなくてもいい。
自分の感覚を味わってくれれば、
それで充分です。
写真は、前々回のアートワークの時間に参加者さんが作ったもの。
自由な発想、自分の世界…それらを存分に楽しんでおられました。
自分の世界を存分に楽しみ、理解できたら、
次は外の世界へ自然に移行するものです。
他者との関わりを求めて行くことが可能になります。
慌てず焦らず、マイペースで。
まずは自分の世界を再確認してみるのも、
良いかもしれませんね。
2月25日、3月20日の開催は、まだお席があるようです。
どうぞお越しください。
本日も最後までお読みくださり、ありがとうございます。
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