名前にまつわる話
午後のひととき、いかがお過ごしですか?
みっちです。
ひとつ前の記事で、
「名前って素晴らしいよね!」という話をしました。
(ざっくりだな…)
名前について思いを巡らすとき、必ず思い出す話があります。
今回は、そのお話。
私の学生時代の友人に、
自分の姉に命名された、という人がいました。
大島弓子さんの漫画に登場しそうなエピソードですが、本当にそうだったようで、5歳ほど離れたお姉さんが、名前をつけてくれたそうです。
正確には、母親が神社でいただいてきた幾つかの名前候補を選んだ、ということらしいのですが、いつの間にか、お姉さんが考えて命名した、と変化していったようです。
お姉さん、天才か!
しっかりしてて、素晴らしい!
と、友人誕生時は、賞賛の嵐だったようですが、
もしかしたらそのお姉さんは、5歳にして母親代わりとして、生まれたての赤ちゃんに命名するという、その役目を背負っていたのかもしないなぁ…と思うのです。
(この友人や、お姉さんに対してセッションを行った訳ではないので、何とも言えませんが、そういう可能性があるかも、という話です)
本来、生まれてきた子どもに命名するのは、
大人の役目です。
大黒柱であるその家の主人が命名する、という約束事もあるかもしれません。
どんな人生を送ってほしいか、どんな幸運を受け取ってもらいたいか、そういった願いをありったけ詰め込んだものが、名前なのです。
名前を贈ることで、所謂、「呪」をかけ、
その子独自の「個」が育ち、そのように成るよう、願を掛ける訳です。
子どもの行く末を見守り、祈る。
これは、どう考えても、大人の役目だし、責任です。
それを5歳の子どもが、本当にしていたのだとしたら(たとえ、名前候補から選び出したのだとしても)、親が大人の役目と責任を放棄した、と考えられるのです。
大人の役目とは、子どもを守ること。
責任とは、子どもを守ることにコミットし、遂行すること。
その役目を「子どもの自主性を育てるため」という名目で、
いとも簡単に手放してしまう大人が多いように感じます。
そういう私も、気づかないうちに、
数多やってきています。
子どもの自主性は、
充分に守られ、親の愛情を充分に注がれ、
承認欲求が充分に満たされたら、
自然に育ってくるものです。
こちらが意図しなくても、逞しく、力強く。
私達大人は、安心、安全な場所を提供できるよう、腐心するのみ。
いつか、その枠を、土壌を、
エネルギー充填、栄養満点になった子ども達が、
飛び出していくことを想い描きながら。
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